「出会い」
キーボードを叩く音だけが、定時を過ぎたオフィスに規則正しく響いている。モニターが放つ青白い光が、僕、蒼井樹(あおい いつき)、27歳の顔をぼんやりと照らし出していた。IT企業のシステムエンジニア。それが僕の社会的なラベルだ。
バグの修正、仕様変更の嵐、終わらないミーティング。デジタルな数字と文字列の海で溺れる毎日。別に、この仕事が嫌いなわけじゃない。けれど時々、どうしようもなく、すべてをシャットダウンしたくなる時がある。
趣味は、一人で完結するものばかり。ヘッドフォンで外界を遮断して没入するTVゲーム。誰にも邪魔されずに物語の世界に旅立てる本屋。暗闇の中、巨大なスクリーンと向き合う映画館。そして、静寂の中で色彩と対話する、水族館と美術館。
誰かと感想を共有するのは、少し苦手だった。自分の内側で生まれたばかりの、まだ形にならない柔らかな感情を、言葉にした瞬間に陳腐なものにしてしまうのが怖かった。だから、僕はいつも一人で行動する。
「……よし、帰るか」
呟きは誰にも拾われず、無機質なデスクの上に落ちて消えた。
逃げるように会社を飛び出し、向かったのはお気に入りの私鉄沿線にある美術館。今日は、久しぶりに心の洗濯が必要だと思った。
改札を抜け、なだらかな坂道を上る。コンクリートの建物が見えてくると、ささくれ立っていた心が少しずつ凪いでいくのがわかった。目的は、敬愛する近代画家、月村亮介の企画展だ。彼の描く、静謐な青の世界に浸りたかった。
平日の昼下がり。館内は予想通り、人がまばらだった。ひんやりとした空気が心地いい。革靴の底が、磨かれた床を叩く微かな音だけが響いている。
目当ての作品は、展示室の奥にあるはずだ。僕はゆっくりと壁にかけられた絵画を眺めながら、歩を進めた。光と影のコントラストが美しい風景画、大胆な筆致で描かれた人物画。どれも素晴らしいが、今の僕の心には届かない。月村の青だけが、僕を呼んでいた。
その時、ふと視界の隅に、白い色が映った。
大きな窓から柔らかな光が差し込む一角。そこに、一人の女性が立っていた。
白いワンピースが、まるで彼女自身が光を放っているかのように見えた。しなやかな黒髪が、静かに絵を見つめる彼女の横顔にかかっている。
僕は何とはなしに、彼女の隣の絵に視線を移すふりをして、横を通り過ぎた。
その瞬間、きらりと光るものがあった。
彼女の耳で揺れる、アシンメトリーなデザインのピアス。片方は三日月、もう片方は小さな星々が連なったような、繊細な作りだった。
――なぜだろう。
心臓のあたりが、きゅっと掴まれたような感覚。ひどく、なつかしい気持ちがした。知らない人のはずなのに。会ったこともないはずなのに。脳の奥底に眠っていた記憶の扉を、ノックされたような感覚。
僕は混乱を振り払うように、足早にその場を離れた。
ようやくたどり着いた月村亮介の作品の前で、僕は大きく息を吸い込む。
『深海の追憶』
タイトルが示す通り、そこにはどこまでも深く、静かな青の世界が広がっていた。吸い込まれそうなほどの蒼。画家の孤独と、それでも世界を愛そうとする祈りのような感情が、絵の中から滲み出してくるようだった。
「……」
しばらくの間、僕は言葉もなくその絵と対峙していた。凝り固まっていた肩の力が抜け、無意識に詰めていた息を吐き出す。そうだ。僕は、この青に会いに来たんだ。
満足して館を後にしようと、僕は出口へ向かって再び歩き出した。少しだけ、さっきの女性のことが気になった。彼女はどんな絵を、あんなに真剣な眼差しで見ていたのだろうか。
けれど、先ほどの場所に彼女の姿はもうなかった。白いワンピースも、特徴的なピアスも、幻だったかのように消えていた。
それから数日が過ぎた。
僕はいつも通り、満員電車に揺られて会社へ向かっていた。イヤホンからはお気に入りのゲームのサウンドトラックが流れ、現実から僕の意識を切り離してくれている。
ドア付近で吊り革に掴まり、スマートフォンの画面を眺める。乗り換え案内、ニュース、SNS。流れ作業のように指を滑らせていた、その時だった。
ふと、視線を感じた気がした。
顔を上げると、数人先に立つ人々の隙間から、見覚えのある気配がした。
黒髪。そして―――耳元で微かに揺れる、月のピアス。
間違いない。美術館にいた、あの白いワンピースの女性だった。今日はベージュのブラウスに落ち着いた色のスカートを履いている。けれど、凛とした佇まいと、どこか儚さを感じさせる雰囲気は、あの時とまったく同じだった。
彼女は窓の外を眺めていて、僕には気づいていない。
心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
声をかけるべきか? いや、無理だ。そもそも、美術館で一度見かけただけじゃないか。話したこともない相手に、一体何を言えばいい?
電車が減速し、駅に滑り込む。ドアが開くと、人の波が動き出す。彼女はその流れに乗って、僕の前を通り過ぎ、ホームへと降りていった。
僕は動けないまま、人波に押されながら、ただ彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
特徴的なピアスが、雑踏の中に消えていく。
次の駅に着くまで、僕の耳には音楽も、車内のアナウンスも、何も届いていなかった。ただ、あのなつかしい感覚の正体を知りたい、という思いだけが、心の奥で静かに産声を上げていた。
続く
著者:Aburi555
文:Aburi555 & Gemini
イラスト:Animon
テーマソング:「青と白のコンチェルト」
歌詞 Aburi555/曲 SUNO V5