「栞の秘密」
『蒼井さん、お元気ですか?』
送信したメッセージに「既読」の文字がついてから、もう何日も経っていた。画面を見つめる私の目は、きっと不安に揺れている。
水族館でのデート以来、蒼井さんからの連絡は目に見えて減っていた。返信は来るけれど、そこには見えない壁のような、よそよそしさが混じっている。私が何か、彼を傷つけるようなことをしてしまったのだろうか。
スマートフォンを胸に押し当て、小さく息を吐く。
・・・
私、月城栞には、誰にも言えない秘密がある。
私は、他人の強い感情を「受信」してしまう。怒り、悲しみ、嫉妬、焦燥。そういった人々の心の波が、まるで雑音(ノイズ)のように、絶えず私の意識に流れ込んでくるのだ。
物心ついた頃からそうだった。満員電車や人混みは、私にとって針の筵(むしろ)でしかない。誰も言葉を発していなくても、空間に充満する人々のどす黒い感情の渦に当てられて、息ができなくなることが何度もあった。
だから私は、できるだけ人と関わらず、静かな場所を選んで生きてきた。人の少ない平日の美術館、単館系の映画館、薄暗い水族館。そういった場所に逃げ込むことでしか、自分を保つことができなかったのだ。
蒼井さんとの出会いは、決して偶然なんかじゃない。
私にとってそれは、惹きつけられるような「必然」だった。
あの日。平日の美術館で、私はいつものように静寂に身を浸していた。それでも、わずかにいる来館者たちから発せられる微かな感情の波は、肌を撫でるように伝わってくる。
その時だった。
私の横を、一人の男性が通り過ぎた。
——信じられない感覚だった。彼からは、何も聞こえなかったのだ。
無関心というわけではない。意図的に他者との繋がりを絶ち、心を分厚いガラスで覆っているような、徹底した「静寂」。まるで深海の底にいるような、研ぎ澄まされた孤独。
私がずっと欲しかった、絶対的な静けさを、彼は纏っていた。
驚いて振り返った時、彼は月村亮介の青い絵の前に立っていた。その瞬間、彼の分厚いガラスの奥から、たった一つの純粋な感情が溢れ出したのを感じた。
(……ああ。僕は、この青に会いに来たんだ)
絵に対する、深く、静かな愛情。他のどんな雑音も掻き消すような、透き通った感情の響き。
気がついた時には、私は彼を目で追っていた。
名前も知らないその人を、もう一度見つけ出したい。その衝動に突き動かされるまま、私は彼が向かいそうな場所――静寂を好む彼が選びそうな空間を探し歩いた。
電車の中で彼を見つけた時は、心臓が止まるかと思った。映画館でわざと彼が通りそうな動線で待っていた時の、手のひらの汗を今でも覚えている。
「あの、すみません……」
彼から声をかけられた時、私は驚いたふりをしたけれど、本当は泣き出したいほど嬉しかった。
蒼井樹さん。彼と一緒にいる時間は、私にとって奇跡のように穏やかだった。
水族館で彼と並んで歩いた時、私は生まれて初めて、他人の感情のノイズを全く気にせずに過ごすことができた。彼の纏う静寂が、私を包み込む防音壁になってくれているかのようだった。
大水槽の前で、人混みに押された彼の手が、不意に私の腕に触れた。
その瞬間、私は信じられないほどの心地よさに包まれた。彼を通して、何か温かく、ひどく懐かしいものが私の心に流れ込んできたような気がしたのだ。私の秘密の能力とは関係のない、もっと根源的な、魂の共鳴のようなもの。
(……この人の隣にいると、どうしてだろう……胸のあたりが、ぽかぽかする……)
私は無意識に、そんな思いを抱いていた。彼もまた、同じように感じてくれているといいなと、密かに願いながら。
なのに。
あの日を境に、蒼井さんは私から距離を取るようになった。
私が彼の静けさに甘えすぎたのだろうか。それとも、私の隠している「普通じゃない」部分を、彼特有の鋭い感性で悟られてしまったのだろうか。
「……会いたいな」
誰にも聞こえない声で呟く。
私が意図的に彼に近づいたという事実を知れば、彼はきっと怯えるだろう。それでも、私はもう、蒼井さんがいない元の冷たい世界には戻れない。
彼のあの深い青の心に、もう一度触れたい。
私はスマートフォンを握りしめ、夜の闇の中で、彼からの連絡をただ待ち続けていた。
続く
著者:Aburi555
文:Aburi555 & Gemini
イラスト:Animon
テーマソング:「青と白のコンチェルト」
歌詞 Aburi555/曲 SUNO V5
