「思い出」
水族館での一件以来、僕の世界は静かに歪み始めていた。
栞さんとのメッセージのやり取りは、以前よりも頻繁になった。彼女が送ってくる言葉の一つ一つは、水族館で触れた彼女の「心の声」が保証する通り、温かくて純粋な好意に満ちていた。
『この前お話ししていた画家の画集、見つけました。蒼井さんも好きだと思います』
『今度、あの映画館で新しい特集上映が始まるみたいですね』
そのメッセージを読むたび、僕の心は喜びと罪悪感の間に引き裂かれる。本来なら、手探りで相手の気持ちを推し量り、一喜一憂するはずの、不確かで愛おしい時間。それを僕は、たった一度の接触で飛び越えてしまった。答え合わせを終えたテストを、何度も見返すような虚しさと優越感が、胸の中で渦を巻いていた。
僕は無意識に、彼女との間に見えない壁を作っていた。メッセージにはすぐに返信するが、次の約束に繋がるような言葉は、巧みに避けてしまう。触れるのが怖いのだ。彼女に、そして、再びルールを破ってしまう自分自身に。
そんな煮え切らない僕の態度を、栞さんがどう思っているのか。知りたくもないし、知りたくてたまらなかった。
ある夜、ベッドに横たわりながら、栞さんから届いたメッセージを眺めていた時、僕はスマートフォンの冷たい感触に、忘れていたはずの記憶の扉をこじ開けられた。
・・・あれは、大学時代の話だ。
僕にも、恋人と呼べる女性がいた時期があった。サークルの後輩だった沙耶香は、明るくて、よく笑う、太陽のような子だった。人と壁を作る僕にも屈託なく話しかけてくれる彼女に、僕はいつしか惹かれていた。
僕が能力のことを隠したまま、僕らは付き合い始めた。僕は固く誓っていた。この力は、絶対に彼女には使わない、と。沙耶香の言葉だけを信じよう。彼女の笑顔を、真っ直ぐに受け止めよう。
最初の数ヶ月は、夢のように幸せだった。だが、関係が深まるにつれて、僕がもともと抱えている不器用さやコミュニケーションへの苦手意識が、少しずつ綻びを生み始めた。
些細なことで、僕らは喧嘩をした。僕の言葉足らずが原因だった。気まずい沈黙が続き、沙耶香は「少し頭を冷やすね」と言って、先に部屋を出て行った。
一人残された部屋で、僕は猛烈な不安に襲われた。彼女は僕に幻滅したんじゃないか。もう僕のことなんて好きじゃないのかもしれない。言葉の裏側にある、見えない彼女の本心が気になって仕方がなかった。
僕は、追いかけるようにアパートを飛び出した。すぐ近くのバス停で、彼女はうつむいてバスを待っていた。
「沙耶香」
僕が声をかけると、彼女は驚いて顔を上げた。その瞳が、わずかに潤んでいた。
「ごめん。俺が悪かった」
謝りながら、僕はしてはいけないと分かっていた選択をした。僕は彼女の肩に、そっと手を置いたのだ。確かめたかった。ただ、彼女の気持ちを。
その瞬間、流れ込んできたのは、僕が想像していたような怒りや幻滅ではなかった。
(……どうして分かってくれないの……好きだから、もっとちゃんと話がしたいだけなのに……寂しい……)
悲しみと、寂しさ。そして、僕への変わらない好意。
僕は安堵した。と同時に、彼女の心を盗み見てしまった罪悪感に苛まれた。だが、その時の僕は、安堵感のほうに流されてしまったのだ。
僕は、彼女の「心の声」に応えるように、完璧な言葉を紡いだ。
「寂しい思いをさせて、ごめん。君ともっと話がしたい。俺は、君のことが……」
沙耶香は驚いたように目を見開き、そして泣きながら僕の胸に顔をうずめた。僕らはその場で仲直りすることができた。
―――それが、終わりの始まりだった。
その日から、僕は変わってしまった。喧嘩になりそうになると、僕は彼女に触れ、彼女の心を読んで、彼女が望む言葉を囁いた。彼女が何か不満を抱えている気配を察すると、触れて本音を探り、問題が大きくなる前にそれを解消した。
僕は、完璧な恋人を演じられるようになった。
けれど、沙耶香の笑顔は、日を追うごとに曇っていった。そしてある日、彼女は僕にこう言ったのだ。
「樹くんは、どうしてそんなに私のことが分かるの?」
その声は、震えていた。
「嬉しいはずなのに……時々、すごく怖くなる。私が何も言わなくても、あなたは全部お見通しで……まるで、私自身が空っぽになっていくみたい」
僕は何も言えなかった。
「あなたと一緒にいると、私が私じゃなくなる……ごめんなさい。もう、無理」
心を盗み見ることは、相手を理解することではなかった。それはただ、相手の心を支配し、自分の望む関係性を維持するための、卑劣なハッキング行為に過ぎなかったのだ。僕は対等な人間関係を、自らの手で破壊した。
この苦い失敗が、僕のルールを絶対的なものにした。誰かの心を温めようとして、その実、自分のエゴで相手を凍てつかせてしまうような真似は、二度とすまい、と。
「……っ」
重い記憶から浮上し、僕はベッドから体を起こした。スマートフォンの画面には、栞さんからのメッセージがまだ光っている。
『蒼井さん、お元気ですか?』
そのシンプルな問いかけが、鉛のように重く僕の胸にのしかかる。
僕は、栞さんとは誠実に向き合いたい。あの過ちを、決して繰り返してはならない。彼女の言葉だけを、彼女の表情だけを、信じたい。
けれど、一度知ってしまった彼女の心の温かさが、僕を臆病にさせる。この心地よさに溺れて、また同じ過ちを犯してしまうのではないかという恐怖が、僕の指を凍りつかせる。
僕は返信ができないまま、ただスマートフォンの光を、夜の闇の中で見つめ続けることしかできなかった。
続く
著者:Aburi555
文:Aburi555 & Gemini
イラスト:Animon
テーマソング:「青と白のコンチェルト」
歌詞 Aburi555/曲 SUNO V5
