連続WEB小説「青と白のコンチェルト」③

「秘密」

僕、蒼井樹には、誰にも言えない秘密がある。

僕は、他人の思考に触れることができる。いわゆる、テレパシー能力者だ。

ただし、その力は限定的だ。相手の身体に直接触れることで、初めてその思考や感情が、霧がかった風景のように僕の意識に流れ込んでくる。はっきりとした言葉ではない。喜びや不安、迷いといった感情の色彩や、断片的なイメージ。僕はそれを「心の声」と呼んでいた。

この能力は、僕の社会生活をある意味でイージーモードにしてくれた。

人と関わるのが苦手な僕にとって、言葉の裏を探ったり、相手の表情から真意を読み取ったりする作業は、ひどく骨が折れる。だが、この力があれば、そのプロセスをショートカットできる。

例えば、クライアントとの打ち合わせ。握手を交わした瞬間に流れ込んでくる「この予算では厳しいな」という懸念や、「この機能にもっと魅力を感じている」という本音。それを察知して、僕は先回りして言葉を紡ぐ。結果、仕事は円滑に進み、僕は「物分かりが良く、勘の鋭いエンジニア」という評価を得ていた。人と話すのが苦手な僕が、皮肉にもコミュニケーション能力が高いと思われているのは、全てこの力のおかげだった。

だが、この力には自分自身に課した、絶対のルールがある。

――プライベートな、特に恋愛関係においては、決して使わない。

相手の心を盗み見る行為は、あまりにも卑劣で、不誠実だ。言葉を交わし、時にすれ違いながらも、少しずつ心の距離を縮めていく。その尊い営みを、僕はこの力で汚したくなかった。だからこれまで、誰かと深く親密になる手前で、僕はいつも臆病になっていた。無意識に触れてしまうことを恐れて。

月城栞さん。彼女は、僕にとって初めてそのルールを揺るがしかねない存在だった。

彼女と連絡先を交換してから、僕らはメッセージで他愛のないやり取りを重ねていた。好きな本の新刊が出たこと、気になる映画の上映が始まったこと。文字を通すだけでも、僕らの感性がよく似ていることが分かった。

そして、僕らは次の週末、水族館へ行く約束をした。

当日、駅で待ち合わせた栞さんは、白いブラウスに青いロングスカートという、まるで僕の心を読んでいたかのような服装で現れた。その耳元では、今日も月と星のピアスが静かに揺れている。

「蒼井さん、こんにちは」

そう言って微笑む彼女に、僕の心臓は正直に音を立てた。

水族館の中は、幻想的な青い光に満ちていた。巨大な水槽の中を優雅に泳ぐ魚たちの影が、僕らの顔を横切っていく。僕らは隣り合って歩きながら、言葉少なにその光景に見入っていた。沈黙が心地いい。栞さんとは、無理に言葉を探さなくてもいいと思えた。

事件が起きたのは、大水槽の前に広がる、特に混雑したエリアでのことだった。

背後から来た子供の集団に不意に押され、僕の体がよろける。とっさにバランスを取ろうと伸ばした手が、すぐ隣にいた栞さんの腕に、そっと触れた。

その、瞬間だった。

―――ザーッというノイズと共に、温かい何かが僕の意識に流れ込んでくる。

それは言葉ではない。イメージの奔流だ。

(……きれいな青……どこかで見たことがあるような……落ち着くな……この人の隣にいると、どうしてだろう……胸のあたりが、ぽかぽかする……)

優しい日だまりのような、温かな感情の波。警戒心も、不安もない。ただ純粋な心地よさと、僕が彼女に対して抱いていたのと同じ種類の、「なつかしさ」。

ハッとして、僕は慌てて手を離した。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」

「え? あ、はい。大丈夫です」

きょとんとした顔でこちらを見る栞さん。彼女には、僕の内側で起きた嵐など知る由もない。

僕は平静を装いながらも、内心ひどく動揺していた。

やってしまった。ルールを破ってしまった。

不可抗力だったとはいえ、僕は彼女の心を、彼女の許可なく覗いてしまったのだ。罪悪感が鉛のように胸に広がる。

しかし、それと同時に。流れ込んできた温かい感情が、僕の心をどうしようもなく満たしていた。僕が一方的に感じていたわけではなかった。彼女もまた、僕との間に何か特別な空気を感じてくれていたのだ。その事実が、卑劣な喜びとなって僕の心を揺さぶる。

「蒼井さん? 顔色が少し……悪いですよ」

心配そうに僕の顔を覗き込む栞さん。僕は曖昧に笑って首を振ることしかできなかった。

それから、僕は意識的に彼女との距離を取った。会話の途中でも、展示を指さす時でも、決して彼女に触れないように、細心の注意を払った。

デートの帰り道、夕暮れの道を並んで歩く。

「今日はありがとうございました。すごく、楽しかったです」

栞さんが心からの笑顔でそう言ってくれる。その言葉に嘘がないことを、僕は「知って」しまった。

本来なら、その言葉を素直に受け取って喜ぶべきなのだろう。けれど今の僕には、その資格がないように思えた。

これは、祝福か、呪いか。

僕のこの力は、月城栞という特別な存在と出会ったことで、その意味を大きく変えようとしていた。彼女の笑顔を見つめながら、僕はこれから始まるであろう、あまりにも不誠実な恋の予感に、静かに身を震わせていた。

続く

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著者:Aburi555
文:Aburi555 & Gemini
イラスト:Animon
テーマソング:「青と白のコンチェルト」
歌詞 Aburi555/曲 SUNO V5