「再会」
あの日以来、僕の日常は少しだけ色を変えた。
無機質な通勤電車の窓に映る景色の中に、無意識に彼女の姿を探してしまう。昼休み、オフィスの近くの書店に立ち寄っては、芸術書のコーナーで不自然に長く足を止めてみたりする。まるで、偶然という名の奇跡がもう一度起きるのを、待ち構えているかのように。
「何探してるんだ、蒼井。そんなに真剣な顔して」
同期の田中に肩を叩かれ、我に返る。
「いや、別に……。ちょっと気になった本があって」
「ふーん? お前が仕事以外でそんな顔するなんて珍しいな。さては、いいことでもあったか?」
勘のいい田中の言葉を適当にはぐらかしながら、僕は内心苦笑した。いいこと、なんてない。ただ、一度だけ見かけただけの、名前も知らない女性のことで、心をかき乱されているだけだ。滑稽な話だった。
そんな淡い期待も、日々の業務に追われるうちに薄れていく。世界は広い。東京というコンクリートジャングルの中で、二度もすれ違ったこと自体が奇跡だったのかもしれない。もう会うことはないのだろう。そう自分に言い聞かせ始めた、ある週末のことだった。

その日、僕は古びたミニシアターの客席にいた。ロードショーが終わった名作や、少しマニアックな単館系の映画を上映してくれる、僕の秘密の隠れ家だ。
上映が終わり、エンドロールの光が場内をぼんやりと照らす。じんわりと胸に残る余韻に浸りながら、僕はゆっくりと席を立った。
出口に向かう人の流れに身を任せる。その、人の肩越しに、見覚えのある横顔が目に入った。
心臓が、跳ねた。
白のワンピース。流れるような黒髪。そして、耳元で静かに瞬く、星のピアス。
彼女だった。
まさか、こんな場所で会えるなんて。僕が勝手に作り上げた「彼女が好きそうな場所」のリストの中に、この寂れた映画館は入っていなかった。これは、偶然がくれた、三度目のチャンスじゃないのか?
今、声をかけなければ、きっともう二度と会えない。
そんな強迫観念にも似た衝動が、僕の背中を押した。苦手なはずの人との関わり。そのハードルを、得体の知れない感情が飛び越えようとしていた。
僕は人混みをかき分けるようにして、彼女の隣に並んだ。
「あの、すみません……」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
彼女は僕の声に気づき、ゆっくりとこちらを振り返った。少しだけ見開かれた瞳に、僕の姿が映る。
「……はい?」
怪訝そうな、それでいて透き通るような声。僕は焦りながら言葉を続けた。
「突然すみません。先日、美術館と……あと、電車の中で、お見かけして」
しどろもどろだった。不審者に思われても仕方がない。彼女の表情がわずかに強張ったのが分かった。
「その……あなたのピアスが、とても印象的で。覚えていたんです」
僕は必死に、彼女の耳元を指さした。三日月のピアスが、劇場の薄暗い照明を反射して、静かに輝いていた。
僕の言葉に、彼女は自分の耳にそっと触れる。そして、僕の顔をじっと見つめた後、ふっと表情を和らげた。
「……そう、でしたか。驚きました」
警戒心が解けた、優しい声だった。
「この映画、お好きなんですか?」
僕は慌てて話題を変えた。気まずい沈黙が怖かった。
「はい。この監督の作品、昔から好きで……。まさか、リバイバル上映してくれるなんて思わなくて」
「僕もです。特に、主人公が海辺で叫ぶシーンが……」
映画の感想をぽつりぽつりと交わすうち、僕らの間のぎこちない空気は、少しずつ溶けていった。劇場を出て、夕暮れの雑踏の中を並んで歩く。こんなことは、僕の人生で初めての経験だった。

「私、月城 栞(つきしろ しおり)と言います」
「蒼井……樹(あおい いつき)です」
月と蒼。僕らは名乗り合って、どちらからともなく小さく笑った。
話してみると、彼女は僕が想像していた通りの人だった。静かな場所を好み、一人で物思いにふける時間
を大切にしていること。好きな画家の名前も、愛読する作家も、驚くほど僕と共通していた。

「なんだか、不思議ですね」
栞さんが、夕日に染まる空を見上げながら呟いた。
「初めてお会いした気がしない、というか……」
その言葉に、僕はどきりとした。
「僕も……です。美術館であなたを見かけた時から、ずっと……なつかしい感じがして」
そうだ。僕が知りたかったのは、この感情の正体だ。
「なつかしい……」
栞さんは僕の言葉を繰り返すと、何かを思い出すように、少しだけ遠い目をした。
別れ際、駅の改札前で、僕はありったけの勇気を振り絞った。
「もし、よかったら……また、お話できませんか」
震える指でスマートフォンを取り出す。栞さんは一瞬驚いたように僕を見たが、やがて静かにこくりと頷くと、自分のスマートフォンを取り出した。
画面に表示された彼女の名前と、シンプルなアイコン。デジタルな情報のはずなのに、そこには確かな体温が宿っているように感じられた。
ホームで電車を待ちながら、僕は何度も画面を見返した。「月城 栞」という、たった四文字を。
なつかしさの正体は、まだ分からない。
でも、閉じていたはずの僕の世界に、新しいページが静かに開かれたことだけは、確かだった。夜空に浮かぶ月を見上げながら、僕はこれから始まる物語の予感に、胸を高鳴らせていた。
続く
著者:Aburi555
文:Aburi555 & Gemini
イラスト:Animon
テーマソング:「青と白のコンチェルト」
歌詞 Aburi555/曲 SUNO V5
